私がいなくても大丈夫であるように

思わず、心の中で数えてしまいました。
1、2、3、4、5秒。
絵を隠すための布を外すと、子供たちはじーっと黒板を見つめ、ゴクリ…。

いつもだったら、「この絵、描くの難しそう」とか「〇〇が描きたかった〜」などと言ったりするのに、誰も何も言わない。
ノートを配り始めても、みんな真剣な顔をして黒板を見つめていました。

子供たちが絵から目を離せなかったのは、それが自分たちの内面で起きている物語だから。

アダムとイブが知恵の実を食べ、楽園を追放されてしまう。
大人からすると「ふうん」ぐらいかもしれません。
でもそれって、中学年の子供にとっては今自分がこの世界で体験しているそのものだったりします。

なぜなら、中学年までの子供たちは周りとふわっとつながっているような感覚の中で生きていました。
まだ自分という自我がはっきりしていないので、世界そのものとなんとなくつながっている。

それは、自分という自我を持っていなかったアダムやイブと同じ。
裸でいても恥ずかしいと思わなかった楽園の中の出来事。

ところが9歳ぐらいになってくると、自分という自我がくっきり出てきます。
世界を「自分の目」で見るようになる。
まるで、 知恵の実を食べてしまったアダムとイブみたいに。

アダムとイブは楽園から追放されてしまいますが、子供たちは現実の世界の中で社会に向かって育っていきます。
少しずつゆっくりと、親の腕の中から巣立っていく。

そのための準備はもうできています。
子供たちは、それまでのふわっとした一体化したような世界から出て行かなければいけませんが、代わりに知恵という力を手にしました。
現実的に具体的に世界を生きていく準備ができている。

もうファンタジーを喜ぶような年齢ではなくなっていきますが、 ある意味ではだんだんと人間になっていく。
天の国の住人から、地上の世界の一員になっていく。

親って、すごいなと思います。
ある意味では、自分がいなくても大丈夫になるように子供を育てていく。
いつ親離れしても構わないよと、今この時を真剣に過ごす。

「自分の目」を持ち、じっと見つめ返してくる我が子。
その瞳に映るのが、大きく誇らしい親の姿でありますように。

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